まばたきより短い25マイクロ秒で10の42乗年分の計算:中国Jiuzhang 4.0が示した光量子の桁違いの威力

1. 何があったのか
USTCの研究チームと清華大学、九章量子科技(Jiuzhang Quantum Technology)が共同で、1,024個の高効率スクイーズド光状態を入力とし、8,176モードのプログラマブル光回路で操作する光量子プロセッサJiuzhang 4.0を構築した。1回の試行で最大3,050光子のクリックを検出し、これは前世代のJiuzhang 3.0(2023年、最大255光子)の10倍以上にあたる。論文は2025年8月12日にarXivでプレプリント公開され、2026年5月13日にNature誌に掲載された。
ベンチマーク構成(L1024データセット、6 nJ)において、最先端の古典アルゴリズム(行列積状態法、MPS)を使ってEl Capitan上で同じ結果を再現するには10の42乗年以上かかると見積もられた一方で、Jiuzhang 4.0は25.6マイクロ秒で1サンプルを生成する。古典との速度比は10の54乗倍を超えるとされる。
2. なぜ今までできなかったのか
光量子計算がこれまで本格的な量子優位性を継続的に示せなかった理由は、光子という粒子そのものの扱いの難しさに由来する。
ポイントを整理する。
光子は質量がなく光速で動き続けるため、超伝導や中性原子のように同じ場所に留めておくことができない。
光は光学素子(レンズ、ビームスプリッタなど)を通すたびに損失が起きる。ガラスの中を通すだけで一定割合が失われる。
スクイーズド光(量子的に圧縮された光)を高効率で生成すること自体が難しく、初期の効率は数十パーセント台が限界だった。
多数の光子を同時に検出する高効率の単一光子検出器が必要だが、室温では難しく、超伝導ナノワイヤ検出器(SNSPD)など極低温デバイスが必要。
検出した光子数が増えるほど、古典アルゴリズム(特に光子損失を逆利用するMPS法)で再現される脅威にさらされてきた。
例えるなら、池に小石を投げて広がる波紋の交差パターンを、波紋が消える前に詳しく観察しようとするようなもの。光は止められないので、極めて短時間に高精度で全体を捉える設計が要求される。
加えて、2022年にBristol大学とImperial College Londonの研究者が、過去のガウシアンボソンサンプリング実験の古典シミュレーション時間を9桁短縮するアルゴリズムをScience Advancesに発表。光量子優位性は古典アルゴリズムの進化によって追い上げられ続けるという構造的な課題があった。
3. 既存技術との比較
項目 | Jiuzhang 3.0(2023) | Jiuzhang 4.0(2025-2026) | 古典 El Capitan |
|---|---|---|---|
検出光子数(最大) | 255 | 3,050 | ー |
スクイーズド状態数 | 144 | 1,024 | ー |
回路モード数 | 144(空間モード) | 8,176(空間-時間ハイブリッド) | ー |
1サンプル生成時間 | 約数百マイクロ秒 | 25.6マイクロ秒 | 10の42乗年(MPS法) |
ソース効率 | 約70%水準 | 92% | ー |
システム全体効率 | 約30%水準 | 51% | ー |
速度比(対古典) | 10の20乗倍超 | 10の54乗倍超 | ー |
動作温度 | 室温(検出器は極低温) | 室温(検出器は極低温) | 液冷スパコン |
4. どうやって実現したのか
最初に用語を整理する。
ガウシアンボソンサンプリング(GBS)は、ガウシアン状態(スクイーズド光など)を光回路に通したときに、出力ポートで光子が同時に検出される確率分布をサンプリングする問題。古典コンピュータでは行列の積和(行列のpermanentやhafnian)の計算に帰着し、光子数が増えると指数関数的に計算量が増える。光量子計算機にとっては自然に解ける問題で、量子優位性のベンチマークとして使われる。
スクイーズド光は、量子的な揺らぎを片方の物理量で押し込め(squeeze)、もう片方を広げた特殊な光の状態。GBSの入力として使われる。
光子損失は光学素子を通る際に光子が失われる現象で、ガラスの吸収・散乱、検出器の感度限界などが原因になる。これがGBSの古典シミュレーション可能性を高める原因の1つになっていた。
MPS法(行列積状態法)は、光子損失を逆利用してGBSを近似的に古典シミュレートする手法で、2024年前後に提案された。光量子優位性に対する最も強力な脅威の1つだった。
Jiuzhang 4.0の仕組みはこうなる。
Verdi励起のMira 900 Ti:サファイアレーザーを13の等強度経路に分割し、25個のPPKTP結晶に照射して25個の2モードスクイーズド状態を生成。ハイブリッド符号化により実効的に50個の単一モードスクイーズド状態に相当する入力を作る。これを空間-時間ハイブリッド符号化で1,024状態に拡張し、8,176モードのプログラマブル光回路に通す。
光回路はビームスプリッタと位相シフタのネットワークで構成され、入力光が干渉しながら出力ポートに分配される。出力ポートでは効率93%の超伝導ナノワイヤ単一光子検出器(SNSPD)が光子クリックを検出する。
性能を底上げした要因は3つに整理できる。1つめはスクイーズド光生成の高効率化(ソース効率92%)。2つめは光学系全体の損失低減(システム全体効率51%)。3つめは光子検出器の高効率化(93%)。これらの数値はいずれも従来比で大幅改善で、光子損失を逆利用するMPS法を実用的に追い越せる水準に達した。
USTCチームは論文で、MPS法を含む論文で検討した全ての古典シミュレーション手法に対してサンプル出力を検証し、現実的な古典計算資源ではMPSアルゴリズムが実験の精度に近づくことすらできないと結論づけている。
5. 何ができたのか(成果)
指標 | 数値 | 業界水準・参照 |
|---|---|---|
検出光子数 | 最大3,050 | Jiuzhang 3.0(255)の約12倍 |
入力スクイーズド状態 | 1,024 | Jiuzhang 3.0(144)の約7倍 |
光回路モード数 | 8,176 | 空間-時間ハイブリッド符号化 |
1サンプル生成時間 | 25.6マイクロ秒 | まばたきより短い |
ソース効率 | 92% | 業界トップ |
システム全体効率 | 51% | GBSで過去最高 |
SNSPD検出効率 | 93% | 業界トップ |
古典シミュレーション時間(El Capitan) | 10の42乗年超 | MPS法使用 |
速度比 | 10の54乗倍超 | 光量子で過去最大 |
動作温度 | 室温(検出器のみ極低温) | 超伝導は全体が数十mK |
技術的意義は3点に整理できる。
1つめは、光子損失を逆利用するMPS法という古典側の脅威に対し、実験的に決定的な距離を確保した点。これまでの光量子優位性は古典アルゴリズムの進歩で追い上げられ続ける構図だったが、今回はその追い上げを実験規模の拡大で振り切ったかたちになる。
2つめは、3,050光子という規模そのもの。GBSの古典シミュレーション難易度は光子数に対して指数関数的に増えるため、255から3,050への約12倍の拡大は、計算複雑性の観点で天文学的な差を生む。
3つめは、室温動作。Jiuzhang 4.0は光回路本体が室温で動作し、極低温は光子検出器(SNSPD)のみに必要となる。超伝導方式(数十mK)や中性原子方式(超高真空+極低温周辺装置)と比較して、装置の単純化とコスト面で潜在的な優位性を持つ可能性がある。
6. この技術が広がると何が起きるか
応用分野とインパクトを整理する。
領域 | インパクト |
|---|---|
光量子計算 | 量子優位性が古典アルゴリズムの進歩に振り切られにくくなる |
誤り耐性光量子計算 | 1兆量子ビット級の3次元クラスター状態構築への道筋 |
量子グラフ問題・分子振動 | GBSが応用可能とされる問題群への活路 |
量子機械学習 | サンプリングを用いた特徴抽出への応用 |
量子データセンター構想 | 室温で動く光量子モジュールが分散計算の核に |
半導体・光学産業 | SNSPDメーカー、フォトニクス部品サプライヤーへの研究投資 |
米中量子覇権競争 | 光量子と超伝導の二刀流体制を確立した中国の存在感 |
社会的意義として最も重要なのは2点ある。
第1に、量子優位性が特定のベンチマーク問題でしか成立しないという批判に対し、規模拡大で実用に近づく可能性を示した点。GBSは現時点では理論ベンチマークだが、量子化学計算、分子振動スペクトル予測、グラフ理論問題、量子機械学習などへの応用が検討されており、Jiuzhang 4.0の規模はこうした応用の現実性を一段押し上げる材料になる可能性がある。
第2に、光量子計算が室温で動作する点は長期スケーリングで決定的な利点になる可能性がある。希釈冷凍機が不要というのは、装置コスト・運用コスト・物理設置面積の全てで大きな差を生む。Lu教授は兆量子ビット モードの3次元クラスター状態と誤り耐性光量子計算ハードウェアへの展望を語ったと伝えられている。
7. 関連企業・市場動向
企業 | 関連分野 | ティッカー |
|---|---|---|
九章量子科技(Jiuzhang Quantum Technology) | 光量子計算(USTC発、非上場) | 非上場 |
PsiQuantum | 光量子計算(米、非上場) | 非上場(SoftBank出資) |
Xanadu | 光量子計算(カナダ、非上場) | 非上場 |
Quandela | 光量子計算(仏、非上場) | 非上場 |
ORCA Computing | 光量子計算(英、非上場) | 非上場 |
Quantum Computing | フォトニック量子(米上場) | QUBT |
Lightwave Logic | 電気光学ポリマー材料 | LWLG |
POET Technologies | 光電子集積 | POET |
Coherent | レーザー・光学部品 | COHR |
ams OSRAM | 光半導体 | AMS.SW |
Hamamatsu Photonics | 光検出器(SNSPDではないが関連) | 6965.T |
投資視点で整理すると、光量子計算は超伝導や中性原子と比べて上場プレイヤーが少なく、ピュアプレイで投資するのが難しい分野になっている。米国のPsiQuantumは未上場ながらSoftBankなどから巨額の資金調達を行っており、IPOがあれば光量子分野の代表銘柄になる可能性がある。
間接的に恩恵を受けるのは、光学部品・光検出器メーカー、電気光学材料(LWLG)、光電子集積(POET)などのフォトニクス関連銘柄。市場全体で言えば、Quantum Computing(QUBT)のような小型ピュアプレイは光量子方式の進展ニュースに対して株価反応が大きい傾向があるが、ボラティリティの高さに注意したい。
中国側のプレイヤーは現時点でA株市場や香港市場で量子計算のピュアプレイは限定的で、九章量子科技は非上場。中国国家戦略の支援を受けているため、A株関連銘柄(光通信、半導体国産化)への波及が見込まれる可能性はある。
なお投資判断は読者各自の責任で行うべきであり、本記事は技術解説を目的としている。量子優位性のニュースは短期的な株価変動を生みやすいが、応用が見えてくるまでには時間がかかるとみられる。
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