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東京大学が嫌いの感情の消去と生成に成功:光遺伝学が海馬と扁桃体の接続を書き換え、うつ病・不安障害治療の新戦略へ

東京大学の奥山輝大教授らの研究チームが、マウスにおいて特定の相手を嫌いになる感情の脳内メカニズムを解明し、光遺伝学で人為的にその感情を消去・生成することに成功した。研究成果は2026年7月10日発行の米科学誌Scienceに掲載された。海馬の腹側CA1と扁桃体をつなぐ神経回路の結合の強さが嫌いという感情の実体であり、光刺激でその結合を弱めれば嫌悪が消え、強めれば嫌悪が生まれるという可逆制御の実証である。不安障害、うつ病、社交不安症など対人関係の障害を伴う精神疾患の治療戦略、さらには恋愛や人間関係のメカニズム研究に新しい視点を提供する成果として国際的な注目を集めている。
東京大学が嫌いの感情の消去と生成に成功:光遺伝学が海馬と扁桃体の接続を書き換え、うつ病・不安障害治療の新戦略へ

何があったのか

奥山教授らのチームは、同じケージで飼育し仲良くなったマウスのうち、1匹の攻撃性を高め、もう1匹を攻撃させる実験を行った。攻撃されたマウスは相手を嫌い、明確に避けるようになる。この時、脳内で何が起きているかを調べたところ、記憶を担う海馬の腹側CA1にある特定の相手を記憶する神経細胞集団と、扁桃体で恐怖や嫌悪の感情を担う神経細胞集団との接続が顕著に強化されていることが判明した。奥山教授はこの流れを、海馬が特定の個体を認識し、扁桃体によって嫌いという感情の情報が付与される、と説明している。さらに、扁桃体から側坐核に至る神経回路が、実際に相手を避けるという回避行動の実行に関与していることも明らかになった。この発見を基に、光遺伝学で海馬と扁桃体の神経接続を人為的に弱めたところ、攻撃されて相手を嫌っていたマウスの回避行動が消失し、再び相手に近づいてコミュニケーションを取るようになった。逆に、電気ショックによる恐怖体験と同時に、特定の相手を記憶する神経細胞集団を光で刺激して接続を強化したところ、そのマウスは相手を避けるようになった。嫌いの感情は神経回路の結合強度として物理的に存在し、その結合を操作すれば感情も操作できるということが実証された形である。

なぜこの発見が画期的なのか

感情が脳のどこに、どのような形で保存されているかは、神経科学の中心的な問いの1つであり続けてきた。相手を嫌うという具体的で個体特異的な感情が、記憶を担う海馬と情動を担う扁桃体の間の特定の神経接続の強度として物理的に実装されている、という描像は、これまでの理論的な想定を実験的に裏付けた点で重要である。加えて、その接続を光刺激で強めることも弱めることも可能で、それに応じて行動が可逆的に変化するという点が、単なる相関の発見を超えた因果の証明となっている。奥山教授らはこれまでに、腹側CA1が他者の記憶を貯蔵する場所であることを2020年前後から一連の論文で示してきた。今回の成果は、その基礎研究の延長線上に、感情と記憶の統合機構を明らかにしたものと位置付けられる。

発見された回路の全体像

脳領域

役割

今回の発見での位置付け

海馬 腹側CA1

特定の他者の記憶を貯蔵

誰かを識別する情報源

扁桃体

恐怖・嫌悪など負の情動を処理

嫌いという感情の付与

海馬-扁桃体接続

記憶と感情の統合

結合強度が嫌いの実体

側坐核

動機付け・行動選択

回避行動の実行

扁桃体-側坐核回路

情動から行動への橋渡し

相手を避ける行動の制御

光遺伝学という手法

光遺伝学は、光感受性のタンパク質を特定の神経細胞に遺伝子操作で発現させ、光ファイバーから照射する光によってその神経細胞の活動を制御する技術である。2000年代半ばに実用化されて以来、神経科学の実験手法として広く用いられている。特徴は、標的とする神経細胞群を極めて選択的に操作でき、ミリ秒単位の時間精度で活動をオン・オフできる点にある。今回の研究では、海馬腹側CA1の特定の相手を記憶する神経細胞群を光で操作することで、その神経細胞群と扁桃体との接続強度を可逆的に変化させることに成功した。ヒトへの直接応用はまだ困難で、光ファイバーを脳に挿入する必要があること、ウイルスベクターで光感受性タンパク質を発現させる必要があることなど、技術的・倫理的なハードルが多い。ただし、この研究が明らかにしたメカニズムは、薬理学的介入や非侵襲的な脳刺激(TMS、tFUSなど)で類似の効果を狙う方向への基礎となる。

精神疾患治療への波及

対人不安、社交不安症、うつ病、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神疾患は、対人関係における嫌悪、恐怖、回避が中核症状の1つとなっている。特定の相手や集団、状況に対する過剰な嫌悪や恐怖が社会生活を制約する。今回の発見は、これらの症状が神経回路レベルでどのように実装されているかを示しており、治療戦略に新しい方向性を与える。奥山教授は社交不安症やうつ病の新しい治療戦略への貢献を目指すと述べている。既存の治療法である選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)や認知行動療法は、神経回路の可塑性を間接的に活用しているとみられるが、今回の研究はどの回路のどの接続を狙うべきかを分子・回路レベルで示しており、ターゲット指向的な次世代治療法の設計を可能にする可能性がある。長期的には、経頭蓋磁気刺激(TMS)や集束超音波(tFUS)など非侵襲的脳刺激技術を組み合わせて、ヒトの特定の神経回路の可塑性を選択的に操作する治療法へと発展する道が開ける可能性がある。

関連企業と市場動向

企業

関連分野

ティッカー

Compass Pathways

サイロシビン療法、うつ病治療

CMPS

GH Research

GH001(5-MeO-DMT)うつ病治療

GHRS

Atai Life Sciences

精神疾患治療の複数モダリティ

ATAI

Neurocrine Biosciences

神経・精神疾患治療薬

NBIX

Sage Therapeutics

産後うつ、大うつ病治療薬

SAGE

Axsome Therapeutics

うつ病治療薬Auvelity

AXSM

Karuna Therapeutics(BMS傘下)

統合失調症、精神疾患治療

BMY

Neuronetics

TMS装置NeuroStar、うつ病治療

STIM

BrainsWay

Deep TMS装置

BWAY

Insightec

集束超音波(tFUS)、神経疾患治療

非上場

Magnus Medical

加速型TMSプロトコル

非上場

Neuralink

脳-機械インターフェース

非上場

投資視点では、今回の研究成果が直接的に特定企業の業績に反映される段階には至っていない。基礎研究の成果がヒトへの応用可能な治療法として実装されるまでには10年以上を要するのが通例である。ただし、精神疾患治療領域で回路特異的介入という新しい方向性が学術的に強化されたことは、非侵襲的脳刺激装置(Neuronetics、BrainsWay)や、サイケデリック系うつ病治療薬(Compass、GH Research、Atai)を開発する企業群にとって、長期的な追い風となる可能性がある。特にTMSやtFUSといった非侵襲脳刺激技術は、光遺伝学で明らかになる回路レベルの知見を、ヒトで実装するための現実的なプラットフォームとして位置付けが強化される可能性がある。

課題と今後の展望

マウスでの発見をヒトに直接外挿することはできない。ヒトの嫌いという感情は、社会的、文化的、認知的な要素が絡み合った複雑な現象で、マウスの回避行動と同じ神経回路で説明できる部分は限定的とみられる。倫理的な課題も大きい。感情や記憶を人為的に操作する技術は、治療目的での応用と、意図しない用途への転用の間の境界を巡って社会的な議論が必要となる。恋愛のメカニズム研究への応用可能性も示唆されているが、これは慎重な取り扱いを要する領域である。技術的な課題としては、光遺伝学のヒトへの応用は現時点では極めて困難で、代替となる非侵襲的手法の開発が今後の焦点となる。それでも、感情という主観的な現象が、脳内の物理的な神経接続の強度として実装されているという描像が実験的に確立されたこと自体が、神経科学と精神医学における大きな進展であるとみられる。今後10〜20年の時間軸で、感情障害の治療は症状を薬で抑える段階から原因となる神経回路を特定して修復する段階へと移行する可能性があり、今回の東京大学の成果はその方向性を示す象徴的な研究の1つとして記憶されることになるとみられる。

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